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ビタミンと日本人

category : メールマガジン2018 2018.1.31 

ビタミンは体内で生成することができませんので、食物から摂取するしかありません。
ビタミン欠乏により、発症する病気としては壊血病や脚気、くる病や夜盲症があり、
ビタミンが発見されるまで、これらの病気は原因不明の病として人々から恐れられていました。
その中でも脚気(かっけ)には日本人の多くが悩まされました。
脚気はビタミンB群欠乏による多発性神経炎で、脚がむくんで痺れ、最悪の場合は急性心不全で死に至る病です。
特に明治期の日本で大流行し、年間約三万人が亡くなる国民病になっていました。
中でも軍隊での被害は深刻で、最大四割の兵士が脚気を患っていたほどです。
この脚気ですが、当初はドイツ医学の影響もあり、細菌がその原因だと思われていました。
しかし、この脚気=細菌説に疑問を持つ人物が現れます。
海軍の軍医だった高木兼寛(たかきかねひろ)です。
彼は欧州では脚気が発生しないことや、白米ばかり食べる兵士が脚気に罹りやすかったことなどから推察し、
脚気の原因は栄養の偏りにあるのではないかと考えました。
今となっては当然のことですが、病気を栄養素レベルで考えたその着眼点は斬新なものでした。
そして高木は、パンからヒントを得た麦飯を兵士に食べさせることで海軍から脚気をほぼ一掃することに成功します。
高木はその成果を論文で発表するのですが、批判にさらされます。
その時点ではまだビタミンは発見されておらず、どうしても論文にはつけこまれる隙があったからでした。
特に、ライバル意識の強い陸軍の軍医たちから批判を受けます。
彼らは科学的根拠がないとして高木を批判し、白米中心の日本食は何ら洋食には劣らないという論陣を張ります。
その論陣を張った急先鋒の一人が森林太郎でした。
この人物は別の名前も持っていました。作家名、森鴎外。
森鴎外という人物は、幼少期から神童と呼ばれ、負けず嫌いで育ちました。
若い頃から新聞の投書欄にせっせと投稿していたこともあり、森の論争術は磨かれていきます。
場合によっては詭弁も弄するその巧みな論争術は、百戦すれば百勝する、と言われたほどです。
また、自身の作品に対する批判は、些細なことにも目を瞑ることはなく、
相手が白旗を上げるまで論争をやめないという、粘着質的な性質も持っていました。
しかし、その性分が災いしたのか、陸軍という組織の論理を貫き通すために、
自ら率先して海軍との脚気論争の前面に立って行くことになります。

ドイツに医学留学した森は、その自信もあってか従来から指摘されていた脚気=細菌説を支持します。
また森自身により、いかに白米が優れているかの比較実験を行うことで、その栄養価の高さを証明してみせます。
結局森は、自身によるこの実験に後々まで引きずられることになり、その後の未曾有の被害へとつながる伏線を自ら張ることになります。
果たして白米だけでも脚気は予防できるのか?
この是非が問われる事態がやがて訪れます。日清戦争の勃発です。
この時、森は兵站軍医部長の地位についており、つまり兵士に何を供給するかの実質的な責任者となっていました。
結果、戦死者約1400人に対し脚気による死者約4000人。なんと戦死者よりも脚気の死者のほうが多い事態を招くことになるのです。
こういった戦場を体験した現場の兵士の中から、海軍のような麦飯支給の声が上がりますが、
陸軍軍医部はそれを断固として認めませんでした。
脚気論争は、もはや両軍のメンツをかけた戦いへと変質していたのです。
次の日露戦争となると、更に悲惨なことになります。
森は軍医監(軍医部のNo.2)へと昇進していましたが、前線からの麦飯支給の要請を黙殺したりするなど、相変わらず白米支給に固執します。
結果、さすがに戦死者より多いという事態からは免れますが、脚気による死者は約27000人と激増していました。
あまりの死者の多さに軍医部のトップである軍医総監は辞任せざるをえなくなります。
代わってその地位についたのは森でした。

そして、この頑なまでの白米に対する固執は、第二の悲劇を生みだすことになります。
それは日本人によるビタミン第一発見の栄誉を逃すことでした。
総監になった森は、脚気病調査会を設立して会長に就任し、当時脚気が流行っていたインドネシアへ調査員を派遣します。
そこで調査員が知ったのは、オランダ人のエイクマンによって、脚気患者に米糠が効くという発見でした。
エイクマンは、米糠にあるその未知の物質を抽出できませんでしたが、発見への道筋をつけたということで後にノーベル賞を受賞することになります。
森もこの報告を受けたのですが、自身の考える脚気=細菌説とはそぐわないため関心を示しませんでした。
その頃、エイクマンの研究を知り、米糠からその物質を抽出することに成功した日本人がいました。
農学者の鈴木梅太郎。1910年のことです。
鈴木はそのことを調査会で発表し、臨床試験をしてもらうよう訴え続けますが、そのたびに断られます。
医師としてのプライドが高い彼らには、一農学者の話を聞く耳など持ち合わせていませんでした。
調査会の非協力的な態度に業を煮やした鈴木は、その物質に「オリザニン」と名づけ、海外向けに論文を発表します。
その物質を見つけてからすでに2年が経過していました。
その間、鈴木の発見から遅れること1年。1911年にポーランド人のフンクが米糠からその物質を抽出することに成功します。
フンクはその物質に生命の維持に必要なものという意味を込めて「ビタミン」と名づけ、論文を発表します。
鈴木の論文よりも半年早い提出でした。
つまり鈴木は、フンクよりも一足早くビタミンを発見していたにも関わらず、論文を出すのが遅れたせいで、
ビタミンの第一発見者の栄誉を取り逃がすことになったのです。
森が会長を勤める調査会が、もしこのとき素直にオリザニンを臨床試験で使用し、脚気に対する有効性を証明できていれば、
鈴木梅太郎はもしかすると日本人として初のノーベル賞を受賞できたかもしれません。
事実、鈴木は少ないながらも海外の学者から、ノーベル賞の推薦を受けていたのです。
そして現在のビタミンという呼び名ではなく、オリザニンという名前で呼ばれていたかもしれません。

ビタミンが発見されてからの森はどうしたのか?
1914年に自身が執筆した医学書では、脚気は「疫種」に分類し、相変わらず脚気の原因が栄養障害であることを認めませんでした。
1916年軍医総監を退官。1922年死去。
おそらく心の中では自らの誤りを早くに分かっていたのでしょうが、
生まれつきのプライドの高さゆえに最後まで真実がその口から語られることはありませんでした。
脚気病調査会の活動は続いていましたが、森が死去してから二年後、
その死を待っていたかのように脚気の原因がビタミンの欠乏であることを公式に認め、解散します。
フンクの発表からすでに12年が経過していました。
また、陸軍が正式に麦飯を支給するようになったのは、高木の試みから30年も経ってからのことでした。
ビタミンが正式に発見されてから、その後は芋づる式にたくさんのビタミンが発見され、
たくさんの人々の健康を改善してきました。
その中に高木兼寛や鈴木梅太郎のような人物がいたことを誇りに思いたいです。

参考資料
「医学は科学ではない」(ちくま新書) | 米山 公啓
「鴎外最大の悲劇」(新潮選書) | 坂内 正
フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿 「ビタミンX戦争X森鴎外」NHKドキュメンタリー

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